石井ゆかりの幸福論【8】自分の人生は「自分だけのもの」なのか。

「幸せって何だろう?」──その答えは人の数だけあるはずです。石井ゆかりさんが綴る『幸福論』で、日常の体験や思いを手がかりに、幸せのかたちをいっしょに探していきましょう。
星占いの「12ハウス」になぞらえて執筆されている本コラム。今回は第8ハウスについてです。
※このコラムは、2019年〜2021年にかけて執筆された連載に加筆・修正を加えてお届けしています。
目次
自分の人生は「自分だけのもの」なのか。
人間のからだには様々な「門」「出入り口」があります。口や鼻の穴、目や耳、汗腺や尿道、肛門、膣など、私たちの身体にはたくさんの入り口や出口があって、外界とつねになにかしら、やりとりしています。この「口」がふさがってしまうと、命が危険にさらされます。
それに似て、生活・人生にも、様々な出入り口があります。たとえば「がま口」がそうです。お金が入ってくる口と、出て行く口です。性交によって「他者を受け入れる」ことも「ゲート」のテーマです。
「入学」「入門」「入居」など、どこかに自分を丸ごと預けるような「入り口」もあります。一方、古来「脱出」「出奔」「脱獄」「家出」など、穏やかでない「出口」の使い方もあります。
「コロナ禍」で私たちは、マスクで口を塞ぎ、ウイルスの出入りに常に気を配る状態になりました。出口や入り口は、出入りして欲しくないものが出入りしてしまう危険をはらんでいます。しっかり閉めておかなければ、望ましくないものが入ってきますし、中からどんどん大事なものが流出してしまう場合もあります。
とはいえ、閉めっぱなしでは使えないのです。どんなにマスクをして気をつけていても、食事をするときには、マスクは外さなければなりません。マスク自体、呼気と吸気を通すように作られていなければ、私たちは窒息死してしまいます。

その対岸の第2ハウスもまた、ゲートです。実際、古く第2ハウスは「ハデスの門」などと呼ばれました。金庫も財布もきちんと閉めておかなければなりませんが、開かなければ用をなしません。
厳重に管理されなければならない「ゲート」のイメージは、古くから星占いの世界に刻み込まれていたようです。
私たちの人生は、外界に向かって開かれなければなりません。でも、無防備に開かれっぱなしの状態では、容易に傷つけられ、大切なものを奪われてしまいます。人生の玄関、人生の裏口、人生のがま口。こうしたものを、危機感をもって管理する姿勢を、だれもが持っています。ただ、その危機感の「強弱」は、人によって振り幅が大きいものでもあります。警戒心の強い人もいれば、ユルユルの人もいるのです。

たとえば、子供の頃の経済的な環境は、大人になってからのその人の経済活動を大きく左右します。性的な問題で傷を負わされた人は、その後長く、「ゲートを閉ざした状態」になることは珍しくありません。
外界に向かってデリケートな部分を「ひらいた」とき、私たちは傷を負うリスクを引き受けることになります。そして、実際に、傷を負ってしまうことがあるのです。これは、若いうちだけでなく、いくつになっても起こりえます。
ゲートから何が入ってきて、何が出て行くのか。
私たちは、ゲートの開け閉めだけはある程度自分でできますが、「門をたたいてくる相手」は、管理することができません。
どんな人に愛を告白されるのか、いつどんな人がオレオレ詐欺の電話をかけてくるのか、自分を口説いている相手は本気なのか遊びなのか、そうしたことを「コントロール」することはできないのです。「何が来るか」ということ自体は、制御不能なのです。
私たちにできることはただ、「ゲートを開くかどうか」の判断だけです。
オレオレ詐欺の被害に遭った人や、性犯罪の被害者などに「警戒が足りなかった」「やられる方が悪い」という言葉を投げかける人がいます。
「自分さえしっかりしていれば大丈夫」「他の人が引っかかっても、自分は冷静で賢いから、決して引っかからない」と考える人は、驚くほどたくさんいます。
でも現実には、そうではありません。
人生の「ゲート」を自ら開くとき、私たちは一様にリスクを負うのです。
そして、人生の「ゲート」を開かないときも、私たちは人生のチャンスを逃し、ひとりぼっちで苦しみながら生きることになるリスクを負うのです。
リスクは、どちらにも存在します。
「ノーリスク」で生きることはできないのです。
「リスク」と「生命力」の関係
第8ハウスから「幸福」を考えたとき、まず「リスク」というテーマが浮かびます。
自分の人生になにを容れ、なにを拒絶するか、という判断がそこにあるからです。
たとえば、親族からの莫大な遺産を、敢えて「受けとらない」という判断をする人がいます。全額を寄付したり、誰かに譲ったりする人は、少なくありません。「受けとることによる、なんらかのリスク」を回避するための判断だったのでしょう。
厳しい親の言うことを聞いて、恋愛を一切拒否して育ち、大人になった人がいます。既に十分いい大人になってしまってから、この人は親に「早く結婚しなさい」と言われ、激しい戸惑いと怒りを感じたそうです。一切のリスクを回避するために、「ゲート」を完全に閉ざして生きてきたため、それをどのように開けばいいのか、わからなくなってしまった、ということなのだと思います。ゲートの開き方は、経験によって学び取られなければならないのです。

必要なものを、必要なだけ受けとる。リスクは最低限に抑える。いつも冷静に、自分の欲望に振り回されることなく、自分の損得をきちんと考えて行動する。
こうした態度は確かに、大人として望ましい生き方です。
ただ、ここには、ある視点が欠けています。
それは、人間を活かしている「生命力」の視点です。
幼い子が力の限り、長い時間泣き叫びます。
じっとしていることが出来ず、つねに走り回っている子供がいます。
若いときは何でも大笑いし、大興奮し、妄想を膨らませ、バカなことをたくさんしでかします。
大人になってからも突如、自分の燃えるような衝動を抑えられない瞬間が訪れます。
損をすると半ば分かっているのに自分の全てを賭けてしまう人がいます。
ちょっとした好奇心から、違法なものに手を出してしまう人がいます。
愛したものにのめり込み、没頭し、耽溺し、おぼれこんで生活が破綻する人もいます。
明日早起きしなければならないと分かっているのに、深夜になってもゲームをやめられない、本を閉じられない、ドラマを見ずにいられない、といった経験に、心当たりはないでしょうか。
かっとなって怒鳴り散らして後悔したり、勢いで告白してやっぱり後悔したり、職場で号泣して後悔したり、上司を殴りつけて後悔したり、といったことは、珍しいことではありますが、現実問題「よく見る光景」です。
こんなふうに、私たちは自分で思う以上に、かぎりなく激しいエネルギーを生きています。
若いときほどそれはむきだしに表れます。
一方、大人になってうまく制御できるようになったと思えた瞬間、びっくりするような内なる荒波に飲み込まれてしまうことも、よくあるのです。
人生の「出入り口」のリスクの問題は、私たちのこうした「生命力」に直結しています。なぜなら、外界との「出入り」が発生するのは、私たちが生きているためだからです。
死んだら、呼吸も、食事も、すべての「出入り」が止まります。
私たちは冷たくなり、もう、エネルギーの激しい燃焼と、それにともなう「出入り」は起こらないのです。
人生のもうひとつの「ゲート」
もとい、人生にはもうひとつの「出口」があります。それは「出産・育児」です。
自分の生命力は、自分という個体の中ではかならず終わりますが、新しい人間に燃え移って、継承されていきます。一人の人の人生から、もう一つ別の新しい人生が「放出される」のです。
子供を生み育てることもまた、大きなリスクを引き受ける営為です。
でも、私たちの内なる激しい生命力は、そのリスクを負って、命を次世代につなげていきます。

というのも、多くの人が「しあわせになりたい」と願うとき、最初に念頭に置くのは、自分自身の幸福であるはずです。
ですが、「自分の幸福とは何か」を考えて行くと次第に、愛する人や子供の幸福が最大の条件となることは、珍しくありません。
さらに、「幸福とは何か?」という問いの答えが「苦しみや悲しみが訪れないこと」となる場合もあります。これは、ここまで長々と述べてきた「ゲートの開閉」の問題です。
喜びやゆたかさが私たちの生活に入ってくるとき、責任や義務、罪悪感などが一緒に流れ込んでしまうことも、よくあります。
幸福は、自分一人だけの世界では、完結しないのです。
私たちの人生は、常にいくつもの「出入り口・ゲート」によって、外界と繋がっています。ゆえに、私たち自身の幸福を考える時はいつも、その出入り口から出入りするものに考えが及ぶのです。
出入りするものは、完全にはコントロールできず、出入りの際には常にリスクが伴います。そのリスクが現実のものとなったとき、多くの人が自分を責めますし、他人が自分を責めてくることもあります。でも本当は、それを「責める」ことは、ナンセンスなのです。
ゲートの開け閉めという「賭け」
ゲートの開け閉めを失敗して、受け入れるべきではないものを受け入れてしまう経験を、ほとんど全ての人が持っているはずです。
一方、ゲートの開け閉めの賭けに運良く勝っただけなのに、「自分は自力で成功したのだ」と信じ切っている人は、少なくありません。
時限爆弾の青い線と赤い線のどちらを切るか、ノーヒントで決めなければならないような瞬間を、私たちは人生の中で、けっこうしばしば、経験しているのです。
そこで爆弾をバクハツさせてしまったとして、その人の責任が問えるでしょうか。
法的にはもちろん、そこがしばしば、問われます。
裁判の場では、それこそが「争点」になります。
でも、私たちが自分個人としての人生や幸福を考える場合は、どうでしょうか。
あるいは、自分にとってごく大切な人の人生について考える時は、どうでしょうか。
かけがえのない大切な人が、赤か青か、間違った方を切ってしまったなら、私たちは基本的に、全力で相手をサポートしようと思うはずです。
自分もまた、同じ目に遭わないとも限らないことが、わかるからです。
幸福がもし、人間の心の中に生まれるものだとするなら、私たちが幸福になるにはまず、「ゲートの開け閉めの失敗について、自他を責めるのをやめる」ことが必要なのかもしれません。
人生には、だれのせいでもないことが、たくさんあります。新型コロナウイルスに感染した人を責めるのがナンセンスであるのと同じように、そこで犯人捜しをするのは、無意味なのです。
もちろん、たくさんの警告を受けながらも「自分だけは大丈夫」「このくらいは大丈夫だろう」といった無根拠な自信で行動し、感染してしまった人々に、医療従事者の方々などが苛立ちを感じるのは当然だと思います。ただ、失敗は誰にもあります。それをどのように反省し、他の人々への教訓とするかは、また別の問題と言えるでしょう。
ひとつだけ確かなのは、「リスク管理」と、「失敗した人を直接的に非難する」こととは、別のことだという点です。世の中には、取り返しのつかない失敗というものも、存在します。人間は、そういう失敗を「する」のです。「絶対にやってはならない!」と声を上げるのも大切ですが、「そもそも、人間とは、そういうことをする生き物なのだ」というところから思考を始める方が、近道ではないかと思うのです。
いいこともわるいことも「誰のせいでもなく」起こります。そのことを引き受けてどう生きるか、ということが、第8ハウスの幸福のテーマなのではないかと、私は思っています。
(2020年12月)
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